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sheephumanのブログ

広汎性発達障害と診断されたASD孤立型。

人生に希望が持てなくなった

 

 自分の性質上、鬱になるとかは恐らくないと思われるのですが、僕はただの落ちこぼれに過ぎません。このまま消えていくだけの人間です。

 面倒な事や嫌な事は全て忘れて、これからも生きていく。自分はもはやこれ以上変わることが出来ない。絶望すらも感じない。ただ死にたくない。それだけです。

 

何のために死にたくないのかもわかりません。消えたくないという、ただのそれだけです。

 

 そのために至ってドライに、見せかけだけの合理性を抱えて生きていく。自分には何もないんだなと最近、感じます。特に他人さまに評価されるだけのものはないし、頭もそれほどいい訳じゃない。退屈と、断続的な疼痛と、欠如した共感性。

 

 あまり人の言葉というものを聴く力がないので、あまり長い口頭の説明は頭に入ってきません。僕は日本の社会で適応していけるだけの人間じゃない。それが最近よく分かりました。

 

 まあそんなことはどうでもいいんです。ただ退屈なのです。

 

 

僕はここ1年程、Twitter上の他人の声に耳を傾ける事を自分に課してきました。それによって”いいね”ぐらいは付くようになってきました。 最初のうちは軽い充足感を覚えましたが、すぐにこれぐらいは実はかなり簡単な事だと考えるようになりました。

だが、そんなものはあまり意味がなかった。多少の人間関係は作れたように思われましたが、それは僕自身を変えるほどのモノではなかった。僕はその関係を切りました。別に嫌いになったわけではないが、僕自身が変化しない事そのものに苛立ちが募り、焦れてくるのです。「別にこいつ要らないんじゃないか」そう考えてしまう。

 

 ここのところ感じるのは、いくら他人の声に耳を傾けたとしても、それを取り込めるのはほんの2-3割程度だということです。ほとんどはフォルダに大量にたまる雑多なプリント用紙と同じ、飽きたら捨てるだけのものに過ぎない。そこには答など無い。

 映画と同じです。そこに何を受け取るかは自分次第であって、僕はそれを求めていない。ただの義務的な反射で見ているに過ぎない。そういう事なんだと。

 

 

 答というのは、結局のところ自分の内面にしかないのではないかと思われました。僕が観てきたのは他人の内面を表現したものでしかない。それを自分のモノに出来たとしてもせいぜい2-3割がいいとこで、大半は取りこぼすのです。

 

 

 これ以上自分に変化を起こせないと悟った僕は、ゲーム作りでもやろうと思いました。正直今やるべきなのか疑問ですが。全てに失敗した人間が最後に志すのは作家だそうです。人生の体験が殆どない人間が作家とかムリだとは思ってますが。

 

 ただ、どうも自分の内面から出てくるモノの方がより答に近い。そんな気はしてます。